プロフィール

1946(昭和21)年11月20日 長野県に生まれる。
1950年5月 3歳半のとき父親が狭心症で急死。
1951年4月 幼稚園に。

母といっしょに
6ヵ月。母と一緒に

 父親が心臓発作で急死したとき、僕はまだ三歳半でしかない。ある年齢になると、自分の父親がどういう情況で亡くなったのか気になるものである。

 最初の疑問は小学校入学のころで、母親に訊くと、
「心臓というのは、突然、停まるものなのね。おまえも気をつけなさい」
といっても、どうしてよいかわからない。
三年生ぐらいになって、また訊いた。
「プールに入るときは、まず準備体操をするのよ」
うむ、心臓というのはかなり微妙なものらしい。

 そのころ、突然、校医の先生が代わった。
「先生はね、亡くなったの。心臓が弱かったのよ」
その校医は子供たちになかなか人気があった。みんなが「おヒゲのピンちゃん」と呼んでいた。元軍医でカイゼル髭をはやしていたのである。 父親の友人だった。だからふだんはむっつりしていたが、校内検診で僕の番がくると、
「おう、元気か」
と声をかけてくれる。なにしろこわもての髭の先生が特別に口をきいてくれる。ちょっと得意だった。

 高校生になってから、母親にまた訊いた。
「無理をしてはダメよね」
父親の死因は、今日でいう働き盛りの突然死だと理解できた。
それからこういった。
「あの髭の先生がね、ラビット(スクーター)で駆けつけて。そしてね、手遅れとわかると、
あの恐い顔がくしゃくしゃになってその場で号泣したのよ」
やっぱりやさしい人だったんだな、と懐かしい気持ちを胸にしまったのである。
その髭の先生の死因について詳しく訊いておこうと思っているうちに母も亡くなってしまった。

「父の死」(93・1)『僕の青春放浪』所収

2歳のころ
2歳のころ。

 あれはまだ幼稚園に通っていたころだ。父親が心臓発作で急死してから間がない時期である。若い母親と小さな僕が散歩している光景――。その後ろ姿を、いまの僕が見つめている。

「あら、こんなところでバザーをやっている」
ふだん僕の通っているところとは違うミッション系の幼稚園のゲートの前で、母親は立ち止まり、振り向いて微笑んだ。
あれはほんとうは散歩ではなかったのだろう、どこかに出掛けた帰路にちがいない。母親が古い外国映画に登場するヒロインが着てい
るようなウエストラインをしめたよそゆきのスーツ姿なのだから。パーマネントをかけた髪も、あの時代の女優特有のかたちに似ていた。
「入ってみようね」
僕はうなずいた。
軍服姿のアメリカ人の男や看護婦さんのような清潔な服装の女の人もいた。
芝生のうえの白いテーブルで母親は、
「みつまめ、二つ」
と注文した。

 娘の面影を残した母親が、遥か彼方の山脈をぼんやりと見つめている。まだ僕は字が読めなかったが「青い山脈」という言葉を知っていて、ほんとうにそうだね、遠くの山は青いね、といって見上げた。赤い唇が淋しく笑っている。テーブルの上に視線を移すと、ガラスの器に盛られた透明で小さな四角い寒天が風で微かに揺れたような気がした。

「青い山脈」(92・1)『僕の青春放浪』所収

 僕は花岡と昭和二十年代の一時期を同じ幼稚園で過ごした。年少が緑組一クラスで森岡クニ先生、年長が二クラスで内山すみ先生の青組と山本光子先生の黄組。ノブちゃんはそのころから四角い大きな顔をしていたが、眉はキリリとしていた。園庭で先生に隠れてチャンバラをすると舌足らずに、ボク、中村(後、万屋)錦之助と叫びすっかり映画の主人公になりきっている。そのころからタメ息をつくのが素直のナオちゃんの癖でお昼寝の時間は寝つかれず幾度も寝返りをうった。二人はいっしょに竹馬でも遊んだから、文字通りの竹馬の友。信州大学附属小・中、県立長野高とずっと同じ、気づいたら共通の池(マスメディア)で釣り糸を垂れていた(註――花岡信昭氏は元・産経新聞論説副委員長)。希有な縁である。

 幼稚園は今年度で年少組の募集を停止、平成十年に閉園となる。明治三十九年に旧制長野高等女学校付属としてスタート、戦中は空襲を避けるため外壁を墨で黒く塗り、戦後も新制長野西高の同窓会経営となんとか生き残ったのに、少子時代のいま百年近い歴史にあっさりと幕が引かれようとしている……。とここまで書いて深いタメ息をついた。

「同級生交歓」『文藝春秋』掲載(96・3)

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