プロフィール

1987(昭和62)年 40歳。10月7日、『ミカドの肖像』で第18回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
『ミカドの肖像』は「週刊ポスト」に一年七カ月(85年1月18日?86年8月1日号、91年小学館ライブラリー、92年新潮文庫)かけて連載された。連載スタート時に渋谷区神宮前の小さな一軒家をみつけ仕事場にしていた。資料が増えたために、大宅賞受賞後から西麻布二丁目のマンションに移転。部屋が九十平方メートル、ベランダが三十平方メートルあったのでなんとかなると思ったが甘かった。緑濃い青山墓地が近く、夕方によく散歩するようになった。

大宅壮一ノンフィクション賞受賞
大宅壮一ノンフィクション賞受賞

 平坦な関東平野から山路に入り碓氷峠を越えると一気に海抜一千メートルの台地に達する。ふりかえると群馬県側の妙義山ははるか下界、墨絵のシルエットのように妍(けん)を競い合っている。関東平野と浅間山の裾野は碓氷峠という巨大な階段によって隔てられているかのようだ。以後、道路や鉄道は長い下り勾配になり小諸から上田へと千曲川とともに降りていく。

 千曲川はしだいに流れをゆるめ、扇状地の善光寺平をつくり、いったん狭隘な山脈に絞り込まれてから、新潟に入り信濃川と名称を変え、大河となって米どころを形成するのである。
 僕は信州の小布施(おぶせ)町を、最低でも月に一度は訪れる。そういう習慣を自らに課している。

 小布施は善光寺平の一隅にある古びた小さな町で、栗林と瓦ぶき大壁造りの民家がかつての繁栄をしのばせる。その静けさが気に入っているというのは僕の勝手な思いで、最近は志賀高原帰りの観光客が一服するのに手頃な場所と認め、地元のほうもまたそれを歓迎する算段である。
小布施はかつて千曲川伝いの新潟からの流通の中継地であった。いったん川から引き上げられた物資は、陸路で江戸に運ばれていく。いっぽう、その繁盛ぶりが江戸からの文人を吸引した。

 印半纏(しるしばんてん)に麻裏草履、長い杖をついて八十三歳の葛飾北斎が小布施の豪商高井鴻山のもとを突然訪れたのは、天保十三(一八四二)年であった。よほど居心地がよかったのか、その後わずかの期間に小布施を四回訪問している。四回目は八十八歳のときで付近の岩松院という福島正則ゆかりの寺の大広間の天井に鳳凰の画を残した。

40歳、妻と
40歳、妻と

 路銀いくばくもなく、九十歳に手の届こうとしている貧しい身なりの老人が、はるか江戸から碓氷峠の急坂を登るだけでなく遠い道程を徒歩で幾度も往復した。いまとなっては想像しにくい光景である。

 北斎のように汗を流すわけではないけれど、国内だけでなく海外も飛び回りながら取材し資料を整理し原稿を書くという日常の狭間で、月に一度小布施を訪れるにはかなりの強行日程をこなさなければならない。上野から長野まで特急で三時間。その後、長野電鉄に乗り換えるのがいちばん平凡なコースだが、いつもそうした道筋を選べるわけではない。時間の制約があるため地方取材の帰路に、小布施を通るコースを組み込んだりする。

 大阪から松本空港に降りて篠ノ井線で長野まで出ることもあれば、直江津から信越線で上ってきたこともあった。車で行く場合も、群馬側の関越道だけでなく山梨側の中央道を通ったり、その都度ちがった。ときには旅先の白馬村や志賀高原、菅平などから車を走らせた。こうして、僕はこの三、四年間に小布施を頻繁に訪れ、あわただしく去った。その旅の間に、ふと、徒歩でゆく北斎翁の姿を心に描いてみたりした。その執念にはとてもかなわない。何度も何度も繰り返しそう思った。

 小布施には、かつてミッション系のサナトリウムがあった。遠い異国から布教のためにやって来て教会を建て、そして病院をつくった宣教師がいたのだ。江戸時代の瓦屋根の街並と大正時代の古い煉瓦造りの教会はしっくりと溶け合っていた。サナトリウムは近代的なコンクリート造りに替えられ、いまは回復不能の老人たちの病院になっている。そこに僕の母が、薄い意識のまま命を存(ながら)えていた。

「北斎の旅、僕の旅」(87・8)『僕の青春放浪』所収

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